シベリア漂流大島幹雄新潮社

日清戦争以前の明治26年といえば、今から既に100年前だが、日本が鎖国を解き、世界に伍して躍進を図っていこうとする時期だけに、その頃の時代の息吹は、鮮烈なチャレンジ精神に充ちていたし、日本人の一人一人の気骨とか、気概というものは、今からは想像できないほどのものであったのだろう。この明治26年に北海道大学の教授の職をなげうって新天地ベルリンを目指し、厳寒のシベリアの横断に挑んだ玉井喜作という青年がいた。陸路を経ての彼のベルリン迄の冒険行は13ヶ月かかったのだが、特にイルクーツクからトムスク迄の厳寒行を後に、「シベリア隊商紀行」として彼はドイツ語で発行している。その「シベリア隊商紀行」や、その時期に書かれた彼の日記を中心に、玉井喜作の生涯を辿ったのが本書である。現代の我々から見れば、無一文に近い状態で、この過酷な旅を思い立ったことでさえ、無謀のそしりを免れ得ないかもしれない。しかし、彼の書き残したものの中に漂うのは、寧ろ無謀とは対局にある、夢を実現させる為の周到さである。旅費を稼ぐ為に、シベリアの地の各所で肉体労働に従事したり、時には監獄につながれることもあったり、何故、マイナス50度ものシベリアを、ここまでの苦労をして横断したのか、破天荒というかはちゃめちゃな行動にも思えるが、やはり明治という日本の勃興期の息吹なのだろう。100年前の未開といってよいシベリアの様子や、人々の暮らしぶりなども、玉井喜作の日記などから、丹念に拾っており興味深い。玉井喜作は、後にベルリンで「東亜」という雑誌を発行し日露戦争時には、日本に対する欧州の同情的世論の醸成に尽力したが、現在は、ほとんど彼の業績は忘れ去られているという。こうやって、歴史の中に埋もれていった多くの明治の男達がいて、日本という国家が出来ていったのだろう。この様に、歴史から忘れられた人物を掘り出して脚光をあびせるという歴史物の手法が多いが、その点本書は題材の面白さから成功していると言える。但し、フィクションとノンフィクションとの中間点的な構成になっており、いささか焦点がぼける嫌いはあるが。妻子と4人の幼い娘を日本に残し、生死をかけるような旅をし、結局ベルリンに妻子を呼び寄せたのは日本出発から10年後だったというから、明治の男たちの、考える事、やった事、あるいはその様なことを許す時代の雰囲気などは、100年後の我々の理解の範囲を超えている。

（発行９８年１１月）