博士と狂人　　　　　サイモン･ウィンチェスター　　　早川書房　　

　

人類が成した偉業には数々あるが、英語という言語の全ての単語とその意味とを網羅し、膨大な用例を収拾記載した「オックスフォード英語大辞典」（OED）の編纂もその一つに掲げられるだろう。この辞典の初版全１２巻の刊行には７０年の歳月を要した。総ページ数は１万６５７０ページ、収録語数４１万４８２５語、用例は何と１８２万７３０６に上る。

OEDの編集方針は、従来の辞典の編纂の方針とはことなり、過去の出版物などの膨大な記録に徹底的にあたり、用例を集めることによって、英語のあらゆる語彙をの意味を規定して行こうというものである。現代の情報化の中では、多少なりとも省力化も可能になったこの辞書編纂の方法も、この辞典が編纂されていた、今から１００年以上も前には、果たして人知が及ぶ作業であるかは確かではなかった。

膨大な用例を文献から集める作業には、多くのボランティアが協力したのだが、中でも最も多くの貢献をしたボランティアは、殺人の罪を犯し、精神病院に収容されていた、アメリカの退役軍人ウィリアム･マイナー博士である。マイナー博士は終生を精神病院でおくることになるのだが、その内の20年は、OED編纂に捧げられたといっても過言ではない。OEDの編纂の中心人物であるジェームス･マレー博士も、その人生をこの偉業達成の為に捧げたと言ってよいだろう。彼は貧しい家庭に生まれ独学でこのOED編纂者となった、言語学の天才ともいえる特異な人物であった。マレーとマイナーという博士と狂人は、OED編纂という人類の偉業達成の中で、お互いの友情と尊敬を育みあって行ったのだ。

マイナー博士が、精神分裂による殺人に至るには、南北戦争での悲惨な戦いのトラウマがあったこと、あるいはマイナーによって殺された貧困層の労働者と、その遺された家族達の運命等々が、すべてこのOED編纂という大事業の影にあることを、本書は巧みに伝えている。正に、「事実は小説より奇なり」だ。

（９９年４月発行）