遊動亭円木 辻原 登 文芸春秋
滑稽話とはいいながらそこに溢れるペーソスや、世話物の中で語られる情の世界だとか業といったもの、更には人情話、廓話の中に溢れる人間の本性としての欲望といったものによって作られている落語は、中々にして奥の深い日本的な芸能、芸術と言ってよいものではないだろうか。
古くは夏目漱石の口語調が落語の語り口から来たものであったように、現在でも落語調の文章でえがかれた物語は、軽快であり又、親しみが持ち易い。従って、落語家を主人公にして、落語と現実の世界を落語調に文章にするというだけでも、既に物語としてある程度の成功は約束されているといっても良いのかも知れない。
芥川賞作家である著者によるこの作品は、遊動亭円木という真打一歩手前で、盲人になった落語家を中心にした幻想的な物語である。１０の短編から成り立つが、これを繋げるとそれが一つの物語になるという連関をもった短編であるという仕掛けも巧妙だ。
円木は糖尿病の為に失明する。人の良い妹夫婦が経営する下町の「ぼたんコート」という名前のマンションの一室に居候の身となっている。その「ぼたんコート」には、密航中国人夫婦や、訳ありの人達が住んでいる。これらの、住人、あるいは円木のパトロンである明楽の旦那、その明楽の苦境の時もじっと従って来た愛人、円木の過去の女、新たな女といった様々な人々との関わりが、物悲しさを湛えつつも軽快に語られて行く。
明楽の旦那が末期のがんになり、その看病に身を捧げる円木との掛け合いなどは、人の生と死とは何であるかの語り合いになっていき見事だ。
明楽の旦那は言う「聖書では、死ぬことを、夜の扉をあける、というらしいが、わたしは近ごろ、生と死は、昼と夜のようにそんな扉一枚でつながっているのではないような気がしてきた。生のはてに、そのどんづまりに、死が待ちかまえている、てなもんじゃない。または、死があっちのほうからやってくる、そういうものでもない。じつは、生と死は何の関係もないんじゃないか」
そういった話しを、しみじみと語り、それを円木がすんなりと受け入れる。人間は死については考えることなど出来ない、ただ「わたしは生きる」ということが出来るだけですと明楽は続ける。円木はそれにうなずき「神様の居候としてですね？」と相づちを打つ。この二人の会話と関係は、現実のようであり、又空想のようであって、それこそ、落語の世界の話しなのかも知れない。
（99年10月発行）