チベット旅行記（全五巻） 河口慧海 講談社学術文庫
河口慧海は慶応2年（1866年）生まれた。東京本所の五百羅漢寺の住職などをしていたが、31才の時に一念発起して仏教の原典を求めるために、当時鎖国を行っていたチベット行きを決意する。
1897年にインドに渡り、チベット語の研鑚に励むなどの周到な準備を経て、1900年に、インド国境からネパール、西チベットを経て日本人として始めて、ラサに入った。セラ寺の僧坊に留まって仏教修行、仏教研究を行ったが、禁を犯して入国した日本人であることが露見したため、1902年にチベットを離れインドに脱出する。
しかし、自らの出国によって獄に繋がれた人々がいることを知り、翌年再び危険を顧みずネパールに赴き、ネパール国王に、チベット法王に疑獄で苦しむ知人を解き放つように働きかけることを懇請した。
この100年前の大旅行を記述したのが本書「チベット旅行記」である。河口慧海自身が意図した訳ではないが、ここに書かれた河口慧海の旅は、「旅行」などという範疇では語れない、実に壮大な冒険覃となっている。
旅行記は大きく分けて三つの部分から成り立つ。前半がラサに至るヒマラヤ越えの約2年に及ぶ大旅行。次がラサに至り、チベットにおける奇異な風習などの中で仏教を研究し徐々に有徳のラマとして、人々の信頼を勝ち得て行く部分。最後が、危機一髪の脱出行と、獄に繋がれた知人達の救済にネパールで国王と接見しその信頼を勝ち得る部分といってよいだろう。活劇小説を読むようだが、これが全て実話だというのだからまさに「事実は小説より奇なり」だ。
今から100年前の、チベットは秘境中の秘境であった。しかも、厳しい鎖国政策をとるその国に至る旅は常に死と隣り合わせの危険に満ちたものであった。
足掛け7年に亘るこの大旅行はヒマラヤの危険に満ちた氷河越えあり、激流に足をすくわれ押し流されながらも九死に一生を得る事件あり、はたまた、山賊、強盗にあったりという大変な冒険旅行である。
しかし、この旅行記の魅力はそのような冒険部分もさることながら、求道の人である河口慧海の仏教に限らず、他宗教に対する理解が、旅行記を通じて語られる部分にもある。
その意味では、本書を一般の探検記とは、全く異なった求道の書、あるいは思想書ということさえ出来るかもしれない。
又、当時、日本のみならず世界にも知られることの少なかったチベットの風俗、習慣、あるいは民族性などへの河口慧海の観察は鋭く、本書がヘディンなどの著作にも数多く引用された一級の民俗学資料としても評価の高いものにしている。
河口慧海は15才の発心以来、禁酒、禁肉食を励行、又一日二食の生活を送ったが、このような質素な食生活が、却ってヒマラヤの過酷な旅行にも耐えうる精神力と体力を養ったようだ。
当時の日本、チベットで横行していた僧侶の妻帯には、仏法の堕落であると激しく非難し、自らも生涯不犯を守ったように、何事につけ、求道心からくる意思の強さは、死をも全く恐れないものであって、それだからこそ、この偉業も成し得たものといえるだろう。
全五巻にわたり語られる、今から百年前の未開の地への旅行記は、息もつかせず読ませる迫力がある。何度も読み返したくなる旅行記である。
(78年10月発行)