秘事　　　　　　　河野多恵子　　　　　新潮社　　　　　　　　

男と女が一緒に人生を過ごす夫婦という形がある。

それぞれの夫婦には、歴史があり物語がある。恋愛から結婚へ、そして子供が生まれ、育ち、自立していく。その間に、二人の社会的な地位も変化し、様々な物語があって、何時の日か夫婦の片方が死を迎える。

こう言った平凡な夫婦の物語には、取り立てるほどの客観的なドラマ性はない。

しかし、河野多恵子のこの「秘事」という小説は、そのドラマ性のない夫婦の淡々とした歴史を、一つの美しい物語として構成している。

三村清太郎と麻子の夫婦はともに昭和11年生まれ。学生時代に恋愛が始まり、偶然、同じ総合商社への就職が決まっていた。就職を間近にひかえたある日、デートの場に急ぐ麻子は、清太郎の前で交通事故に会い顔に大きな傷を負う。

同情からの結婚ならば、お互いの為に、結婚すべきではないと清太郎の母は言うが、就職を辞退した麻子に清太郎は結婚を申し込む。

清太郎は敏腕な商社マンとして、海外駐在を重ね順調に出世し、常務にまで昇進する。麻子と清太郎の夫婦の関係はお互いが「お風呂に入っているよう」な心地良さで過ぎていく。子供達のこと、二人の老いた両親達の死といった小さなドラマの積み重ねの日常が、丁寧に語られていく。

「楽しみにしていてくれ、僕の臨終の時には、素晴らしい言葉を聞かせるから」清太郎は、麻子に言っていたが、麻子の57歳での急逝でこの小説は終わってしまい、清太郎が麻子に伝えたかった言葉が何であったのかをこの物語は語っていない。

しかし、物語の冒頭部で与えられた清太郎が麻子と結婚した理由は、麻子の怪我という「秘事」に対する同情からだったのかという疑問の答えは物語全体で知ることができる。

清太郎が麻子と結婚した本当の理由こそが清太郎が臨終の時に語りたかった言葉でありそれが「秘事」であったということを。

読者それぞれが、同じく、平々凡々たる自分達夫婦の物語をもっていることだろうが、その自らの物語に置き換えて、この物語を読み様々に考えることだろう。

（00年10月発行）