蝉しぐれ　　　　　藤沢周平　　　　文春文庫　　　　　　　　　

昨年末に亡くなった母が、晩年もっとも好んだ作家は藤沢周平だった。全作品を揃えて、何度も読み返していたようだ。

母から藤沢周平の魅力を、時折、聞いていたので、この不世出の時代小説家の作品を読んではいたのだが、四十九日忌を期に、母を懐かしむ気持ちから、この「蝉しぐれ」を手にとってみたが、本作も見事な「藤沢周平の世界」だ。

小説としての、ストーリー性において申し分ないだけではなく、その描く世界にしっとりとした情緒を感じさせる作品だ。

海坂藩普請組の武士の嫡男である主人公、牧文四郎の15歳の時から物語は始まる。隣家の娘ふくとの幼く、淡い交流、同年代の友人との交流といった青春物語が、語られる。文四郎の父母、あるいは彼の通う道場や、塾の人模様から、実に鮮明に、時代小説の背景となる時代の息吹とその風景が浮かび上がってくる。

海坂藩そのものが、藤沢周平小説の虚構の藩であり、当然、全てが小説という虚構の中にあるにも関わらず、彼の筆力は、それらの情景をまざまざと浮かび上がらせて行き、読者をぐいぐいと引き込んで行く。

若い武士達の青春鄲あり、文四郎とおふくの淡い恋心ありとほのぼのとした物語を横糸に、お家騒動、文四郎一家の没落と再起、あるいは文四郎と宿敵との剣術試合などの縦糸の物語が見事に絡み合っていく。

藤沢周平の世界に流れる、恋愛、友情、あるいは親子の情には、人生の哀歌のベースがあり、又、その哀歌を温かくみつめる作者の目がある。

この小説を読んでいると、母が「藤沢周平の世界」において好んだものを、自分も再び感じることができたような気がして、又、母を懐かしく思い出した。

（91年7月発行）