届かなかった手紙　　　　　クレスマン･テーラー　　文芸春秋　　

この小説は1938年に書かれた。あの狂気のナチス台頭の時期に、それに続く、ドイツ国民の熱狂、そしてユダヤ人の大虐殺への道を、暗示していたことになる。

小説は米国に住む画廊主であるユダヤ人と、ミュンヘンに在住するその画廊の出資者でもある友人との間の20通たらずの短い往復書簡のみからなっている。

一切の説明もないこのただ時系列に配置された手紙によって書かれたこの小説が、ナチスの台頭の時期には、ヒトラーに対して懐疑的であったドイツ民衆が、徐々にその狂気に巻き込まれ、マインドコントロールを受けて虐殺者の立場に変わっていく様子を饒舌に物語る。

民族主義という魔物が、無二の親友同士、あるいは愛し合った者同士をも、民族差別とその憎悪の渦にまきこみその人格を変えてしまい、お互いを見殺しにすることも平気でおこなってしまう。

こんな例は、本書に取り上げられたユダヤとドイツの問題のみならず、最近でも民族融和のモデルケースであった旧ユーゴスラビアが、民族憎悪の最悪紛争地になってしまった例のように、人類の歴史ではよく起きているのだ。

極めて短いこの小説の投げかけた人間の愛憎と哀しさのテーマは重い。

（01年4月発行）