桃源郷（上・下）　　　陳舜臣　　　　　　集英社　　　　　

井上靖の作品などに代表される「西域小説」は、時代のスパンと地域を広くとり、小説家の想像力をかきたて、又、読者のその時代の歴史のロマンを膨らませる。

陳舜臣の「桃源郷」もこの西域小説の特徴が良く出ている。この小説の舞台は、中国からアラビア、ペルシャ、さらに北アフリカ、イベリア半島と「西域」をはるかに超え広大である。

又、その時代は１１世紀から１2世紀、遼が金に追われて滅び、その遼の皇族であった耶律大石が西方に逃れて、カラキタイ（西遼）を建国したころが中心になっているが、この時期は西方ではビザンティン帝国、中東ではセルジュク朝が覇権を争っていたという、小説の舞台としては実に興味深い時代でもある。

このような舞台設定のもとに、ストーリーはかつて唐の時代に弾圧を受けて滅亡に近いダメージを受けたマニ教徒が、世界の各地でその信仰を伝承しつづけたことが主題となって語られていく。

耶律大石、暗殺教団の名で知られるイスマイリ派の長老ハッサン・サバッフ、四行詩の詩人であり天文学者でもあるオマール・ハイヤームは、マニ教の領導者として登場する。

その耶律大石に西方にいるマニの領導者をさぐる命を受けた主人公の数十年にわたる西域への幻想とロマンは、マニ教徒にとっての桃源郷を求める旅でもある。

ほとんどの宗教は、自己顕示と他宗教否定から成り立っているが、マニ教は自らをマニであることをひたすら隠し、それが嵩じたために、彼らの子孫は自分達の宗教がマニ教であることすら自覚していないという不思議なことも起きたという。

このような徹底的な自己抑止により、他宗教の否定から起きる異教との争いがマニにはなかったともいう。

ニューヨークにおけるテロや、パレスチナの紛争の根本にある宗教間の争いを思うときに、この小説の主人公達が求めた、宗教的な争いのない「桃源郷」の意味がまた重みを持って伝わってくる。

（01年10月発行）