最後の将軍 司馬遼太郎 文芸春秋
徳川慶喜が第１５代将軍の地位にあったのはわずか2年ほどでしかない。彼が１５代将軍になる以前から徳川幕府の300年の命運は尽きようとしていたし、慶喜自身はそれを十分に理解していた。
すなわち、慶喜の2年の将軍職は、300年続いた徳川の世、いや600年以上続いた武家社会に幕引きをし、新しい明治という時代、近代国家日本をより少ない混乱の下で拓くためにあったといっても差しつかえなかろう。
その役どころを、家康以来の英明さを敵にも味方にもうたわれた慶喜は見事に遂げたし、彼以外にはこれだけの大事業を成し遂げることができなかったであろう。時代が人を作り、人が時代を作るまさに典型的な例かもしれない。
幕末の主要人物としては、必ずしも多くを語られることのなかった徳川慶喜が、実は幕末という時代における最重要人物であると、スポットを当てなおしたのは、司馬遼太郎の本書であった。
将軍職を出したことのない水戸藩に生まれ、その後、一橋家に養子縁組し、ついには将軍職に至った慶喜の運命は、ドラマチックな幕末政治史であり、この物語の前半部分での司馬遼太郎のストーリーテラーぶりは見事なものだ。
黒船来航以来の勤皇・佐幕あるいは攘夷・開国で揺れる当時の政治情勢、衰えていく幕府を中心とする保守勢力と、薩長などの新しい力、朝廷自身とそれを取巻く人々の思惑や葛藤、政治的緊迫が、後半部分の物語を深いものにしていく。
それぞれの人物像が実によく浮かび上がってくるのは、司馬遼太郎の作品の優れた特徴だが、本作品でもその本領はいかんなく発揮されている。
資料の読み込みだけではなくその上にこのような人物像や時代の雰囲気を乗せて、一つの創作世界を創っていく司馬遼太郎の圧倒的な力にはあらためて感嘆させられる。
（97年7月発行）