そうかもしれない　　　　　　　耕治人　　　　　 　晶文堂　　　　

耕治人は1988年に82歳で亡くなった作家だ。

本書には耕治人の最晩年に書かれた三つの作品「天井から降る哀しい音」「どんなご縁で」そしてタイトル名にもなっている彼の遺作「そうかもしれない」の三篇がおさめられている。

いずれの作品も脳軟化症を病み日に日に衰え、記憶を失っていく妻を懸命に介護しながらも、自らも老い、思うように体が動かなくなり、遂には、妻は老人介護施設へ、そして自らはがんで妻とは別の病院へ入院することを余儀なくされるまでの日々を描いた作品だ。

自分の為に自らを犠牲にして懸命に尽くしてくれた妻が、急激に衰えて行き、最初は洗濯をすることができなくなり、風呂づきだったのに何週間も風呂に入らなくなりという経過を辿っていくなかで80を過ぎた作者が懸命に介護をしていくが、遂には下の始末ができなくなって行く。妻の粗相を懸命に始末する作者に対して、それがもう自分の夫であることも認識できなくなった妻が「どんなご縁であなたにこんなことを」とつぶやくという作品「どんなご縁で」、そして離れ離れの施設でもう体力のつきかけている夫の下に、介護施設の人たちに連れられて車椅子で訪ねてきた妻との再会に涙にくれる夫を描いた「そうかもしれない」では思わず目頭が熱くなった。

ともに、老いという人生の最後の時期を迎えた夫婦という名で一緒になった男女の寂寞とした黄昏を描いて出色のものがある。

特に、妻との再会に涙に濡れる夫、介護施設の人に何度か「ご主人ですよ」といわれた妻は、「そうかもしれない」と言った。このことばは、生涯人と争うことの無かった妻が、口癖のように日常言っていた言葉だった、という耕治人の絶筆「そうかもしれない」の最後の場面は、長く名を知られることのなかったこの作家の生涯も、この場面で全て報われていると言えるほどのものだと思った。

（07年2月発行）