聖書男　　　A・J・ジェイコブス　   　　阪急コミニュケーションズ

神が7日間でこの世界を創生し、人類はその時、神が創ったアダムとイブの末裔である―――と聖書に書かれているからと、ダーウィンによる進化論を否定し「創世記」を信じる人がアメリカの人口の約半分いるというのだから、ちょっと宗教に「ゆるい」日本人には理解しがたいところがある。

オーム信者のような、非科学的なことを信じ実行に移してしまうファナティック（狂信的）な人間は日本にもいるが、人口比からすれば無視してもよい規模でしかないのだから、そんな日本人からみれば、教育レベルが低い無教養な人々に限らず、インテリに属する人たちの多くまでもが「人類は6000年前に神が創った」とか「ノアの箱舟は実在した」などと大真面目で信じる人間が国民の半分を占め、彼等の国が世界一の軍事力を持っていると聞くとなんだか恐ろしくもなるが−−−。

そんなアメリカの中でもニューヨークは又、一段と宗教が複雑な町だ。厳格なユダヤ教の教えを守り続ける人々、聖書をその字義通りに守ろうというキリスト教徒、エホバの会もあれば、モルモン教、もあればそれらとは全く逆の無宗教、反宗教の人々の享楽の都市でもあるのだから。

本書は、ニューヨーク在住の「まったく宗教に無関心」だったというユダヤ人の著者が、聖書の教えを忠実に守って生活するとはどういうことなのかを1年間、自ら実践してみた記録である。

離島でのサバイバル生活を実践したドキュメントなどというものがよくあるが、ある意味では「N.Yで1年間聖書に忠実な生活を送る」のは離島の一人暮らしよりも過酷なのではないか−−−と日本人は考えてしまいそうだが−−−。

著者は、妻と幼い息子のいるルポライターであり、本書の執筆が当初から目的であることもあって、只聖書の教え通り暮らすだけではなく多くの宗教関係者を訪ね、あるいはイスラエルに旅して様々な人たちに体当たりインタビューするなど、現代アメリカの宗教事情の生レポートをしており、「体当たりドキュメンタリー」として中々面白い一冊だ。

著者は最初の8ヶ月を旧約聖書の戒律を中心に、そして残り4ヶ月を新約聖書の教えを中心にした生活を行うのだが、特に3000年近く前に書かれた旧約の戒律の部分が面白い。

旧約聖書には現代では理解不可能と思える戒律が多くある。例えば、歩き方、食事、入浴、服装、などあらゆる生活の場面にわたる戒律が700以上もあるのだが、その多くの戒律は現代に於いては何のためにこんな戒律があるのかさえ理解できないし、実際に戒律通りに生活することなど不可能というものも多い。

なぜヒゲや髪を切ってはいけないのか、なぜ「植えてから5年経っていない木になった果実を食べてはいけない」と考えてもどうにも戒律の意味が分からないという著者だが、これを忠実に守ろうと努力する。表紙に掲げられている著者の伸び放題になったヒゲと髪の毛姿は実に異様で、NYならばまだどうにか暮らせても東京ならば、とても無理だ。（少なくとも巨人軍には入れない）

「5年経っていない木になる果実を食べるな」という戒律を守ろうとすれば、バナナはもちろん、5年経っているかどうかわからない市場で売られているほとんどの果物は、食べることができない。

可笑しかったのは、著者が罪を犯した者を「石打ち」せよという戒律を実践しようとした際、挑発するかのように、自ら「不倫をしている」という老人を、石打ちしようと（実際には足に小石を落とすのだが）して、逆襲される下りだ。なんともバカバカしくて愉快だが、こんなバカバカしいことに似たようなことを実践している狂信者（？）が国民の半分いるというのだからアメリカは一体どうなっているのだろう。

本書では、このような現代では実行不可能な戒律について、聖書を字義通り実行すべしとする人たちがどのように現実と折り合いをつけているのかといった辺り、あるいはそういう狂信者たちからいかに金をまきあげる「宗教ビジネス」の実態などにも触れている点がおかしい。

生理中の女性は穢れているから触ってはいけないという戒律を守りながら、いかに妻との関係を保つのか、働いてはいけないと定められた安息日にメールチェックをしてはいけないのか―――。

これだけばかばかしい生活を1年間過ごした、著者が最後に宗教についてどのような結論に至ったのかという点も、それなりに納得はいったが−−−。

なにしろ、こんな生活をしてみようと思い立つだけでも、現代のアメリカでなければあり得ないことだろう。

日本で同じことをやったら単にキチガイと思われるだけで1年も続ける前に病院送りされることだろう。日本に生まれてよかったと思うことしきりだ。