カザフ遊牧民の移動　　　　　　松原正毅　　　　　平凡社　　

ユーラシア中央部についての一般の日本人の知識は限られている。

その中央ユーラシアで1934年からの19年間、カザフ遊牧民が辿ったアルタイ山脈からトルコまでの民族大放浪の旅という極めてニッチな歴史研究を専門とし、ここまで詳しく描ける研究者が日本にいるということに、いかに日本人が1億3千万人いるとはいえ驚いた。しかも、その研究は超世界級といってよいものだというのだから。

ジンギスカンなどの歴史で知るように、昔から中央アジア一帯には多くの遊牧民たちが生活していた。遊牧という生活形態をとる彼等には国境という概念はなく、広い草原を移動しながら生活してきた。

しかし、そんな彼等の伝統的な生活も19世紀始め、ソビエト連邦が成立し、モンゴル人民共和国が成立するなどして国境線が引かれはじめることによって次第に圧迫を受けることになる。

この地域に成立した国家にとって定住しない遊牧民は次第に抑圧の対象となっていく。このような変化の中で、カザフ人たちは抑圧を逃れ、長い民族放浪の旅をはじめるのだ。この旅は遊牧と違って再び戻ってくる旅ではない。

その約20年に亘る苦難の道のりは、まさにモーゼ率いる、脱エジプトのユダヤ民族の移動（エクソダス）にも似た、壮大なものである。

彼等の放浪は、アルタイから始まる。アルタイを越えてモンゴルへ、そこでモンゴル軍に終われ今度は中国青島へ、そこも追われて今度は極寒の地であるチベット高原へ。

しかし、ここでも追われた彼等はカシミールへ向かい、そこでも過酷な収容所生活を送ることになる。そこでもインドのイギリスからの独立、パキスタンの分離独立といった渦の中で翻弄され続け最終的にはパキスタンへたどり着くも、彼等の放浪はここでも終わらず、最終的にはトルコへ移住し定住することになるというまさに中央ユーラシア縦断の大放浪だ。

なんだかウソみたいな二十年にも亘る大放浪がわずか70年ほど前にあったことを知り、しかもこういった民族の大移動が決して特別なものではなく、世界には多くの民族が今も放浪を続けていることを思うと、この島国で2千年以上に亘り安定した生活を営むことができた日本人は、本当に恵まれているという実感を深める。