乗っ取られた聖書　　　　秦剛平　　　京都大学学術出版会　

キリスト教原理主義者たちにとっては「聖書」は絶対的なものでありその事が古来よりキリスト教による（あえていうならば）「害悪」の元となってきたとさえいえる−−−と信者でもない人間としては思うのだが−−−。

聖書は「神が与えた書」であるから絶対的な真実が書かれているのだ―――といった教条主義が、害悪とばかりはいえないまでも聖書が人類に及ぼしてきた影響の源泉だ。

そもそも「神が与えた書」である訳はなく、所詮はある新興宗教を興そうとした様々な「人間」によって書かれたのが聖書だ！と考える（まっとうな）人間にとっては、聖書の本当の成立過程を知っておくことはある意味ではキリスト教に対する（サディスティックな？）楽しみという面もあるかもしれない。

日本における聖書文献研究の第一人者である著者による本書のごとき研究は、（本人の意図とは全く異なるかもしれないが）そういった欲求を満たしてくれる。

「キリスト教の聖書」成立にいたる実に様々な文献を渉猟した結果を明らかにしながら本書で著者が展開する聖書成立の過程は、まさに「聖書が人間たちによって作られた（でっちあげられた）」ことを示している。

キリスト教の聖書の大本は、プトレマイオス二世に献納するために、アレキサンドリアにいた七十二人のユダヤ教長老が七十二日間かけてヘブライ語でかかれたユダヤ教の「モーセ五書」をギリシャ語訳したものだという。

しかし、このギリシャ語訳された「モーセ五書」は、エルサレムの地理さえも知らない移民ユダヤ人たちによるトンデモ翻訳であり、間違いだらけ（中には意図的な翻案もある）という代物だった。

アレキサンドリアに於けるこのギリシャ語訳は、元々はユダヤ人たちが自らの民族、宗教の名誉を回復させるためにと行なったものだが（例えば、モーセ五書の中にはモーセとその姉はらい病であったという記述があるが、ギリシャ語訳からは消えている）、このギリシャ語訳こそが「忠実に神の言葉を伝えたモーセ五書原典と一字一句違わない書だ！」として都合よく自分たちの聖書として「乗っ取った」のがキリスト教徒たちであると著者は主張する。

もちろん、聖書を都合よく「乗っ取られた」ユダヤ人たちは、それに対して乗っ取られた「七十人訳」よりもすぐれたギリシャ語訳を作りだしキリスト教徒達に対抗しようと、様々な試みを行なったが成功しなかった。この経緯も面白い。

又、初期の聖書構成者たちが、ユダヤ教経典を原典とする旧約部分と、イエスの業績を表した新約部分とをうまくつなぎ合わせたか−−−という部分もきわめてスリリングだ。

現代においても外交文書などにおいて「翻訳」の際に、意図的な改ざんが行なわれるなどということもよくあるだけに、聖書がこんなにも人間臭い行為の積み重ねで成立しているという話は、非キリスト教徒にとっては痛快だ。