子殺しの行動学　　　　　　杉山幸丸　　　　　　講談社　

本書の初版発行は80年だそうだが、巻末の立花隆の解説によるとその出版は、サル学、いや動物行動学の常識を塗り替える衝撃的なものであり、その衝撃の強さは本書が「世界的な名著」の一つとされていることでも証明されているのだという。

「戦争や殺人等によって、同じ種を大量に殺す動物は人間だけだ」というそれまでの常識が、インドにおける著者の、ハヌマン・ラングールというサルの詳細な生態観察によって完全にくつがえったのだ。

本書は著者が世界ではじめて発見したある種の動物の群れにおける「子殺し」という驚くべき事実の記録である。

著者の20年に亘る研究史、そして著者自身の一研究者としての研究人生を著したもので、動物行動学の記録というだけではなく一人の研究者のエッセーを読むかのような面白さに溢れた一冊だ。

ハヌマン･ラングールは、いくつかの単雄複雌群とそのハーレムをいつか乗っ取ろうと手ぐすね引いているはぐれ雄だけの群れがそれぞれの縄張りを守って暮らしている。この単雄複雌群の雄は頻繁に彼のハーレムを乗っ取ろうとするはぐれ雄グループによる挑戦を受けているが、通常は撃退するこの若雄たちも、3年から4年に一度の割りで、ボス猿の衰えなどによる群れの乗っ取りに成功することがあるという。

乗っ取りに成功した若雄群の行動も又驚くべきものだ。若雄群の中でももっとも強い雄は、ハーレーム奪取に成功すると、今度は、仲間だった他の若雄たちを群れから追放するだけでなく、乗っ取った群れに残る前ボスの子ザルたちを皆かみ殺してしまうというのだ。

これだけでも実に衝撃的な話であり、著者がこの観察結果を纏めたレポートは当初科学誌などから掲載を拒否され、学界でもこれは単なる特殊な群れにおける異常ケースであるとされたぐらいだったという。

子殺しが、更に衝撃的なのは、子ザルをかみ殺された群れの母ザルたちは、たちまち発情して新しい雄ザルと交尾し、その雄ザルの子供を産むということだ。子供を殺した相手と直ぐに交尾をはじめる−−−ということが自然界においてあり得るということは、自然界の一員である人類にもそのような本能があるのではないか−−−などと考えるてしまうと、なんだか厭世観に囚われてしまい、その余りの衝撃に立ち直れないほどのショックを受ける人だっているのではないだろうか。

そのような解釈に至らないまでも、「人間以外の動物は同じ種で殺しあわない」というそれまでの常識が、本書に述べられた観察によって覆ったことの衝撃がいかに大きかったかは十分想像できる。

本書に述べられたハヌマン・ラングールの子殺し研究以降、これがきっかけとなり世界各地でより詳細な動物行動の観察研究が行なわれ、今や、他の種のサル、あるいはライオンなどのハーレム型の群れを作る動物の中にも、「ハーレム乗っ取りとそれにともなう子殺し」をする種があることはよく知られている。

しかし、今からわずか30年ほど前までは、この事実が全く知られていなかったということが、コロンブスの卵のように不思議にも思えなくもないが―――。

先にも述べたが、本書の面白さは、著者がその20年に亘る観察史を、自らのプライベートな思いや思い出とともに語っている点だ。

当時はまだ誰もがトライしていなかった、自然状態のままの動物群を、詳細な個体識別を基に時系列的に観察する−−という著者の観察方法が、従来の、餌付けという人工的な環境化におかれた群れを、かなりいい加減な個体識別、あるいは識別なしで観察していたそれまでの動物行動学の観察方法に対する批判になっているという点も面白いと思う。（そういう意味では高崎山の日本ザルの研究などもある程度の見直しが必要なのではないだろうか）

著者の自然観察者としての極めて真摯な指摘は、学界の掟や人的関係に縛られている多くの科学者への（多分意図してはいないのだろうが）皮肉になっているところも面白いと思った。

しかし、森の奥に住むラングールの多くの群れを、しかも個体識別しながら長期に亘って観察するという努力は、並大抵のものではないだろう。

さて、この子殺しという驚くべき習性を動物行動学的にどう解釈すべきなのだろうか。

著者は、環境が許容する生息個体数維持の為の自然のメカニズムが、群れの個体数維持の為の子殺し、というメカニズムを生んでいるのではないかという説をとっているが、ドーキンスの「利己的な遺伝子」のように、「自分の遺伝子を残すため」という解釈も成り立つだろうし、更に様々な解釈もありうると思う。この点においては、まだこれこそが生物進化の中における「子殺し」の理由だという定説には至っていないようだ。それだけに、我々はどうしても我々人類の中で起きる同種の殺し合い、子殺しといった事象とこのハヌマン･ラングールの社会を引き比べてしまうのだが−−−。

女性の連れ子が、新しい愛人によって虐待死した、といった事件が起きることがあるけれど、ハヌマン・ラングールの「子殺し｣となにか関連性はあるのだろうか−−−などとどうしても考えてしまいがちだが―――勿論、そのような解釈は早計であるとは思うものの―――実に衝撃的な一冊である。