湿地　　　　　アーナルデュル・インドリダソン　　　東京創元社　

アイスランドのミステリー小説である本書を読むに当たっては、まずアイスランドという国を知っておくことが前提になる。

アイスランドは北極圏に浮かぶ島国だが、面積は日本の1/3程、人口は僅かに32万人、その92％が首都レイキャビックなどの都市に集中している。かつて無人島であったアイスランドに人々が移り住んだのは9世紀後半であり、現在のアイスランド人はほぼ全員が最初に移り住んだ祖先の数家族にまで家系を辿れるという単一民族だという。

人口1億3千万の日本とはまったく異次元の国における殺人事件だという前提無くして読み始めるとなんとも理解しがたい展開だけに、この事前知識は重要だ。

首都レイキャヴィクの「北の湿地」地区のアパートで、一人の老人の死体が発見される。灰皿で殴られた傷があり一見、通りがかりの人物の衝動的殺人とも思われたが、遺体には鉛筆で「おれ　は　あいつ」と書かれた紙が残されていた。

捜査に当たったのは、主人公の中年捜査官エーレンデュルが中々ミステリー小説らしい魅力的な人物だ。

彼は胸の痛みをかかえていながらタバコが止められず、別れた妻とは離婚以来20年も会っていない。二人の間にできた子供二人とは最近ようやく再会しはじめたが、娘は麻薬常習者、息子は少年厚生施設から3回目の出所を果たしたたばかりと問題山積だ。

問題含みの私生活を抱えた冴えない捜査官という設定はこの種の犯罪小説には中々ぴったりだ。

エーレンデュルの私生活とおぞましい殺人事件ミステリーとが、平行して展開する。中々、手慣れたミステリー小説らしい展開だ。

殺されていた老人の身元が判明するなかで、この老人のおぞましい過去が明らかになっていく。老人は昔、強姦事件を起こしながら訴えた女性と合意の下であったと主張し、まんまと罪を逃れ、強姦の被害者は女の子を生んだがその子は幼くして死に、女性も自殺している。

この老人の殺人事件と古い強姦事件はなにか繋がりがあるのだろうか―――映画評論家であったという作者だけに、ストーリー展開は映画的でもあり中々巧みだ。

冒頭述べたアイスランドという特殊な小国で起きたという前提を理解していないと、結末は、「まさか！」ということになりかねないところがあるが、これは作者が海外でこの作品が世界各国で翻訳されベストセラーとなるとは想像していなかったからかもしれない。

次作が待ち遠しい作家の一人である。