わたしの渡世日記(上下)　　　　　高峰秀子　　　　　新潮社　　

高峰秀子は大正13年生まれ、5歳から子役としてその活躍、十代にはその美貌もあって彼女のブロマイドを持って戦地に赴くまだ恋人のいない若い兵士たちが多かったという憧れのマドンナ女優でもあった。

とはいうものの、亡くなった父母と同世代ということもあり戦後の彼女の活躍は聞いてはいたがそれほど親しみを持っていた訳ではなかったが、本書を読んで父母の生きた時代の雰囲気を身近に感じるとともに、あの時代を生きた人々の息吹が聞こえてくるようで、女性文筆家としての彼女の筆致に引き込まれっぱなしであった。

女優出身者であれば、繕いがちな自らの人生や心情を包み隠すことなく、実に正直に描き、しかもそれが一部の覗き趣味の読者受けを狙った暴露的なものではない、というある種の清々しさは、本書が40年近く前に書かれたとはいえ不朽の随筆として賞されるのも当然だと思わせるものがある。

本書は彼女の、複雑な生い立ちから書き起こされている。赤ん坊の時、実の父の妹であった養母に貰われ、5歳の時にひょんなことから子役デビューして以来、養父母をはじめ多くの家族、親族の唯一の稼ぎ手となって華やかな女優業の中、実は貧しい生活を続けざるを得なかったこと、役者稼業が忙しく学校に通うこともできずに文盲コンプレックスに苛まれたことなど大女優としては秘密にしておきたいのではないかといった事柄を「正直」に語っているのは、彼女にとって本書に書かれた彼女の「渡世」が決して人に恥じるようなものではなく「これがわたしの渡世なのよ！」という却ってプライドのようなものが裏づけにあるからだろう。

本来ならば、自らの不遇を書くことには読者の同情を得ようとか、自らの悔恨の思いの吐露といった意図が混ざりがちだが、本書において彼女には、そういう外連味が一切感じられない。

子役時代から少女時代、そして成長してからも、彼女には次々と養父母的存在の人物が現れる。しかも、その人達が、東海林太郎や田中絹代、東宝社長の植村泰二、入江たか子、千葉早智子、大川平八郎、岸井明、監督の山本嘉次郎等といった有名人、あるいは谷崎潤一郎や梅原龍三郎のような大家達であるということなど、彼女の自叙伝的な本書の中に出てくる登場人物の凄さも、本書そして彼女自身の魅力となっている。

しかし、そのいずれもが、決して彼女の「自慢話」としてではなくこれも同じく「これがわたしの渡世なのよ！」というある種の居直りにも似た赤裸々な回顧として描かれている点にも好感が持てる。

17歳の時の黒澤明とのほのかな恋の顛末、30歳の時木下恵介と川口松太郎夫妻を仲人として挙げた松山善三との結婚の顛末など、戦前、戦後の映画史のみならず日本の文化史が本書の背景として次々と表れることもあって上下二巻息もつかせず読ませる。

考えてみると、女性解放、男女同権が言われる現代にも負けない強さを大正生まれ女性がもっていたことを、高峰秀子と同時代を生きた母のことも思い出しつつあらためて強く感じた。

(12年1月発行)