アグルーカの行方　　　　角幡唯介　　　　　　　集英社　　　

GPSがあれば地球上の何処にいても自分の位置が分かるし、そもそもどんな僻地からでも衛星電話が通じる現代、この地上にはもはや人跡未踏の地などといえる場所があるのか、あるいは未開の地に分け入る探検だとか、冒険といった言葉に相応しい場所などあるのか、と思える現代だからこそ、その数少ない未踏の地や、「冒険旅行」に対する我々の憧れは益々高まっているようにも思う。

著者の前著「空白の五マイル」は、そんな現代においてのこされた数少ない未踏の地、チベット・ツアンポー渓谷最深部を著者自らが単独分け入った迫真の冒険行を描いたノンフィクションだったが、今回は、19世紀初め、北極海北西航路発見の旅に出て129人全員が死亡したとフランクリン隊の足跡を追った著者とその仲間2人の北極圏踏破旅行というこれまた極限の「残された冒険旅行」の記録である。

この著者が他の冒険家、探検家と違うところは、著者自身は自分の職業を「ライター」と名乗っているところだ。冒険家が書いたこの手のドキュメントは多いけれど、ライター自身が「冒険をした」というのは、おなじドキュメント物でも随分意味が違うと思う。すなわち「冒険」が目的なのではなく、「書く事」が目的の冒険旅行となると、読む側もこの冒険の本当の意味は何だったのかと色々考えさせられるのだ。「空白の五マイル」はまさにそんな衝撃の作品だったが、本書もそれ以上に新鮮だし「冒険」そのものについて色々と考えさせられた。開高健がベトナムの戦場に出かけ死と直面した経験を描いた作品にも似てこの著者のライター魂には驚くと同時に、なんだか理解を超えた恐ろしさのようなものを感じたのだ。(開高健も報道特派員としてベトナムに行ったのではなく、あくまでもその本質は命がけのライターであることを望んでベトナムへ出かけ、望んだとおり（？）の死の渕を歩いたのではなかっただろうか）

氷点下40度にもなる北極圏、90日間もの間、全く人と会うこともない北極海の氷原とツンドラ地帯を歩き続ける著者とその友人の二人。厳寒の中の行軍によって奪われる体力ゆえに常に押し寄せる空腹、栄養不足から起きる口唇ヘルペスが糜爛状態となり染み出す血が、つららとなって唇からぶら下がる−−−そんな極限の状態で著者達は、いまから150年前にこの無人の雪原を彷徨し結局全滅したフランクリン隊の足跡をたどるのだが、その迫力はノンフィクションならではのものだ。

乏しい食料しか持たない彼等の前に忽然と麝香牛の群れが姿をあらわす。この見渡す限りの雪原の中で生きている物といえば彼等二人とこの麝香牛の群れだけだという感動的なシーンが描かれその美しい描写に息を呑むが、二人にとっては、この麝香牛の群れの感動も、「食料」であるという誘惑には勝てない。二人は、その群れの一頭を撃ち殺すのだが、その一頭は母牛であった。死んだ母牛の回りから離れようとはせず鳴き叫ぶ子牛に戸惑う二人。しかし子牛一頭ではこの雪原を行き抜くことは不可能であることを知る二人は、その苦しみを和らげてやろうという思いからやむを得ず殺すのだが−−−。むしろ淡々と描かれるこの一連の殺戮場面は淡々とえがかれるからこそより悲惨であり、過酷さだ。生物である人間は、他の生物の命によってしか生きながらえることができないのだという原点、即ち「人は生きるためには食べなければならない」という我々が日常の中では忘れている事実をこの場面はまざまざと気付かせてくれる。

自らの北極圏横断の記録と同時平行的にフランクリン隊をはじめとする19世紀の冒険家たちの足跡を記すドキュメントを重ねるという本書の構成にも著者のライターとしての比類の才能がいかんなく発揮されているように思う。

旅の終わり、二人が到達点に近づくにつれて、延々と村へと続く幹線道路が見え始め、この地に住むイヌイット達が超近代的な大型バギーにのって疾駆してくるのと出会う場面などは、やはりもうこの地上からは本当の冒険の地はなくなりつつあることのだという事実を教えてくれているようで、思わず笑ってしまうと同時になぜか淋しい思いにもとらわれた。そういえば昔、夏の穂高を登りきってみたら、ケーブルカーで上ってきた短パンにジーンズの女の子の一団と出くわしてがっかりしたこと等を思い出した。