美術品はなぜ盗まれるのか　　　サンディ・ネアン　　　　白水社　

94年7月、ドイツのシルン美術館に貸し出し中のロンドン・テートギャラリー所蔵のターナーの代表作二点が何者かによって盗まれた。

この二点には、総額37億円の保険金がかけられていることからも分かるように「イギリスの宝」ともいえる作品であり、英国とテートギャラリーはその総力を挙げてこの2点の奪還へと乗り出す。

著者はその奪還作戦の責任者をつとめたテートギャラリーの学芸員である。8年半にも及ぶターナー奪還作戦のまさに中心人物によるその作戦の顛末だけにその内容は実に詳細で迫力に満ちている。

情報提供者、ロンドン警視庁美術特捜班やドイツ警察、保険会社の損害査定人との息詰まる交渉ドキュメントは、あたかも奪還作戦の現場にいるかのような臨場感に溢れており読者に、上質のミステリーを上回る迫力をもってせまる。

本書は、このタ作戦の顛末、著者や関係者の絵画奪還までの心情の描写だけに留まらず、なぜ美術品がかくも簡単に盗まれるのか、しかもなぜ年々増えてしまっているのかという「名画窃盗」そのものを総括しているがこの部分が特に興味深い。

あまりにも著名な名画は、盗んでもこれを転売することはほとんど不可能だ。（007の「ドクターノー」のような隠れコレクターは最早存在しない）

かつては、名画窃盗犯の目的は、その名画を人質にとっての「買戻し」にあったし今もそういう部分はあるが、最近の名画窃盗は、高価な価値を持ちながら持ち運びに便利であるという絵画の特質を利用したマネーロンダリングの手段としての意味合いが強いという。盗まれた名画は、闇社会の「通貨」として使われ国際的な麻薬取引や武器取引にとってはなくてはならないものになっているという。

本書はターナーの作品二点は結局、8年半後にテートギャラリーに帰って来たといういわゆる「めでたし、めでたし」の結末の割には、その詳細な経緯は、必ずしもあきらかにはされておらず、読後感は今一つすっきりしない。

それは、英国では身代金の支払いが禁じられているということもあって（恐らくテートは身代金を支払ったであろうにも係わらず）、その辺りの詳細が明らかにされていないというか、なんとなくウソっぽいところにあるように思う。

犯人はだれであったのか、仲介者と称する人物と事件とのかかわりなど、本書では曖昧なまま伏せられている部分こそが読者がもっとも知りたい部分ではないだろうか。

もっとも、絵画泥棒の映画ドラマのような大団円の終わり方は、この事件がフィクションではなく、実際に起きたノンフィクションであるという証左でもあるのだが―――。

美術品盗難という犯罪が、かつての映画ドラマでは、ちょっとお洒落で、ロマンチックな犯罪であるかのように描かれたことが、実際は極めて凶悪で情状の余地のない犯罪であるにも係わらず、今も絵画盗難の多発の一因になっているという著者の指摘は、なるほどと頷ける。

一枚の「絵」に50億、100億の値がつくということ、「美術品の価値」とは一体何なのかという問題を考えさせられる。