浮雲　　　　　　　林芙美子　　　　　　　　新潮社文庫　

林芙美子がこの小説を書き終えたのは昭和26年その死の年であった。

林芙美子といえば「放浪記」がよく知られているが、評論家達の間では、小説としての完成度としてはこちらの方が上だとの評価が高い作品であり、彼女の代表作と言ってよい作品だ。

戦前には日本軍が支配する「南方」と呼ばれた地域に役人、あるいは民間人として出向き、それらの地域で支配者側の人間としての環境、内地の様々なしがらみから解放された自由奔放な生活という「夢のような日々」を過ごした男女が、終戦とともに帰国、今度は戦後の混乱の中で厳しい現実と様々な人間関係の軋轢の中に生きていかなければならなくなるという激変を経験する。

そのような激動の中で、揺れ動き、からみあう男と女の複雑な愛憎劇がこの小説である。

芙美子自身をモデルにしたとおもわれる主人公ゆき子と、その愛人富岡の二人の視点を交互に使って描かれたこの物語の、粘着性の強さ（まあ、下世話にいえば「どろどろとした」）が、芙美子がこの小説を書いてから60年以上が経った今日、理解できる読者がいるだろうか、そもそもこの手の作品が今の読者に受け入れられるだろうか、と思った。（戦後の混乱期の記憶がうっすらとでもある自分には、理解できるだけではなく、この作品はある意味では正に日本的恋愛小説の代表作という気もするが）

ゆき子と富岡という主人公以上に、脇役的存在である登場人物が皆実に印象的だ。

ゆき子を愛する余りに事件を起こし破滅していく富岡の同僚加野、富岡の友人の妻であったのに富岡の下へ走りそして捨てられる富岡の妻邦子、心中するつもりでゆき子と富岡が出かけた伊香保で富岡と知り合い、富岡の下へ走り夫に殺されてしまうせい子、ゆき子の処女を奪った寄宿先の主人であった杉夫等々、皆、この終戦の混乱の中で破滅的な運命を辿っていく―――というまさに退廃的ともいえる小説は、日本のしかも戦後のあの数十年間を除いては描けなかっただろうし、又中々評価されることもなかったのではないかという気もした。

確かに名作ではあるが−−−。賞味期限は切れつつあるのかもしれない。