記憶をコントロールする　　　　井ノ口馨　　　　岩波書店　　

親の形質が子供に遺伝することはそれこそ太古の人々でさえ知っていたが、その仕組みが解明されたのはワトソンとクリックによるDNAの二重らせん構造の発見、そしてそれに基づく分子生物学の諸研究によるものである。その意味では遺伝学におけるDNA構造の解明は、宇宙の法則がガリレオやニュートンの研究に匹敵するといってよいだろう。

分子神経生物学者である著者は、現在の記憶のメカニズム研究は、宇宙法則におけるガリレオ、ニュートンの時代直前の状況にあるという。

記憶というものが一体どのような仕組みによって作られ、保たれているのかは、現在、徐々にその仕組みの一部が解明されつつあるものの、その根本的なメカニズムの原理法則発見には至っていない。(遺伝におけるDNAのように、「記憶がどこに収納されて、いかにして再現されているか」といった鍵はまだ発見されていない)

著者はこの問題について最初は哲学からアプローチしようとしたが、遂には脳のシステムとして捉えるのでなければ究明できないであろうとの考えに至り、爾来、分子神経生物学からのアプローチを続けている。本書は、現在までのところの、世界の記憶研究、探求作業の中間報告的な物を述べた一冊といってよいだろう。

記憶は、まず脳の海馬でシナプスが回路を作り、それが記憶の原型となる。次に記憶は、この海馬における短期記憶格納庫から、大脳皮質に書き写され長期記憶となるのだが、その時点で海馬にあった短期記憶はクリアされることが分かっている。

面白いことに、大脳皮質に保持された記憶の回路は、思い出すたびに再び一旦、不安定化されてから再固定化される−−のだという。すなわち、この仕組みが、事件の目撃記憶が、思い出す度に書き換えられてしまいその信憑性が失われていく−−という多くの事例の原因なのだとか。

もっとも、著者もいうように、これらの現在までに解明された記憶メカニズムの様々なデータには、遺伝に於けるDNAのような「これで決まり！」といった根本原理が解明されたとは言い難いことは事実。やはり、記憶メカニズム研究はいまだにガリレオ以前状態だということのようだ。

脳科学者たちの今後の更なる研究におおいに期待したい。

(13年5月発行)