銀嶺の人（上下） 新田次郎 新潮文庫
「孤高の人」（520/781）、「栄光の岩壁」など新田次郎の山岳小説には実在したモデルがいることが、その小説にリアルさを与えていることは確かだ。
この「銀嶺の人」の登場人物にももちろんモデルがいる。フィクションとして描かれているのだから実在のモデルと作品の登場人物が全く異なると断り書きがあったとしえも、どうしても読む側は、フィクションと実在の人物とを同一視してしまいがちだ。
この「銀嶺の人」のモデルは、世界で初めて女性同士のペアで、アルプスのマッターホルン北壁の登攀をなしとげた、今井通子、若山美子という実在の女性クライマーたちだが、彼女たちがこの偉業を成し遂げた67年当時、連日新聞紙上で報じられる彼女たちの登攀の様子を読んでいたという実体験の記憶があるだけに、小説に描かれている彼女たちの登攀の詳細が、なんだか自分の実体験でもあるかのような錯覚に陥ってしまう。そこが新田次郎のうまいところともいえるのだが―――。
自らが厳冬期の富士山頂測候所での越冬経験をもつなど登山家でもある作者が、実在のモデルを使って書いた小説となると、そのリアルさが他の山岳小説を寄せ付けないというのも当然かもしれない。
勝気で男勝り独立心の強い医学生駒井淑子と無口な鎌倉彫作家の若林美佐子という二人の山好きが、厳冬期の八ヶ岳の石室で偶然出会う場面から始まるこの小説は、二人がマッターホルン北壁を征服後、それぞれが独自パーティとともに歩む登攀キャリアーとその生き方をドラマチックに盛り上げていく。
新婚旅行で挑戦したドリュー頂上下のテラスで夫とともに落雷に打たれて遭難死するという若林美佐子も、そのモデルであった若山美子が同じようにグランジョナスでの山での遭難死という劇的な幕切れ、二人を取り巻く魅力的で個性的な山の男たちや、鎌倉彫の芸術観、駒井淑子のロッククライミング挑戦を学風に合わないとやめさせようとする古いタイプの教授たち、といった実に豊富な材料をちりばめながら進められる上下二巻だが、一気に読ませるドラマ性に満ちている。
（79年5月発行）