下級武士の食日記 青木直己 日本放送出版
桜田門外の変が起きたのは万延元年(1860年)の3月だが、その6月に紀州和歌山藩の下級武士である酒井伴四朗は、江戸に単身赴任してきた。
伴四朗の江戸での住まいは、和歌山藩の江戸屋敷にある侍長屋で、一緒に赴任してきた上司でもある叔父、そして同僚との共同生活である。
当時の下級武士の勤務は実に暇なものであったようで、月に数日、数時間だけ出勤すればよく、月によっては一度も出勤しないということもあったようで、伴四朗は初めての江戸をあちこち見て回り、又、食べ歩き飲み歩きを楽しんでいたようだ。日記にはそういった見聞、あるいはグルメ記録が書かれている。
伴四朗に限らず当時の人々は随分と酒を飲んでいたようで、日によっては昼から何かと理由をつけては大酒を飲んでいたし、仲間が集まると皆で酒や肴を出し合っては宴会のようなことをやってもいたようだ。本書はそんな伴四朗の記録を基にして当時の江戸の食事情、そして庶民の暮らしぶりが紙上で再現されていて実に興味深い。
人口の半分以上が侍、しかも地方の諸藩から単身赴任してきた侍が多かったこともあって、そば屋や寿司の屋台などがかなり多かったようで、伴四朗の食日記には外食の記録も多い。又、既に様々な惣菜なども売られていたようで、現代の若い単身赴任者の食生活と変わらない部分も結構ある。
又、伴四朗は中々料理好きでもあったようで、長屋での自炊の際には、その時々に安かったものを大量に煮込むなどして何度かに分けて食べようと工夫した様子などが、細かく書かれているのだが、同居している上司でもあり叔父でもある宇治田平三に、ごっそり食べられてしまい、ガッカリしたことなど、後々に誰かに読ませるためではなく、全く自分のプライベートな記録として書かれた日記だけに、実に面白い。
横浜に出かけて異人見物をしたり、あるいは大名行列や吉原のおいらん道中を見にいったことなど、風雲急をつげていたかのようなイメージのある幕末の江戸で、意外とそういった風もなく暮らす伴四朗の様子は、いつの世でも、後々の歴史から見れば変革期であった時代でも、一般庶民は意外とそういった変革を感じていないのかもしれない―――と思わせるところがある。
（05年12月発行)