生きて帰ってきた男 小熊英二 岩波新書
父は大正9年（1920年）生まれだから本書の著者の父でありこのオーラル・ヒストリーの語り手、1925年生まれの小熊謙二さんとはほぼ同年代である。
しかし、父の戦争体験と小熊謙二氏のそれとは全くと言ってよいほど違う。父は終戦間際に召集を受け、鳥取の連隊で訓練を受けていた時に終戦を迎えたから実戦の経験もない。ところが、ほぼ同じ時期に召集された小熊謙二氏のそれは実に過酷なものだった。
小熊氏は、19歳だった戦争末期に召集され、旧満州で終戦を迎えた、その後、シベリアに抑留され3年をシベリアの極寒の中で寒さとひもじさ、そして過酷な労役の下に過ごすという、実に厳しい戦争体験をした。
戦争体験者による記録は多く出版されているが、その体験談の筆者、語り手の多くは軍隊で将校クラスであった人、あるいは特攻隊員や戦艦乗組員などによる戦記物的な部分が多く、圧倒的に多かったであろう一般国民の軍隊体験を書いたものは決して多くない。
本書でかたられているのは謙二氏自身が自分を称して「社会の下の下」だったという、いわゆる大多数の一般国民、しかもその下層クラスの人々の「兵」としての軍隊経験、抑留経験である点において、中々貴重な記録ということができる。
世の中の趨勢に流されるだけであれよあれよという間に軍隊に行かされ、そこで上からの命令を盲目的に受け入れる以外、一切自分で考えることもゆるされなかった大半の「兵」たちが、どのようにこの過酷な軍隊経験、抑留経験を生きてきたのか、という記録はこの種の戦争回顧碌ではあまりみられないものであり、大いに目を開かれた。
本書の特徴は、この小熊謙二という下層庶民の戦時における体験ばかりではなく、シベリアから帰国後、結核を患っての5年に及ぶ療養所生活、そしてその後の戦後の日々をいかに生きてきたのか、そして今、この戦争経験者は何を思い、何を考えているか、といった90年近くに及ぶ日本近代史、しかも庶民目線でのオーラル・ヒストリーになっている点だろう。
兵たちには「生きて俘虜の辱めを受けず」という戦陣訓を国民に強要しながら、戦後、腹も切らず、ピストル自殺（しかも未遂）であった東条英機、そして何らの戦争責任を果たすこともなかった昭和天皇に対する敗戦直後の日本の一般庶民の失望感などを語っている部分には、そういえば自分が子供の頃、意外とこの手の意見を言う大人がいたことを思いだし、色々考えさせられた。
90歳になる父が、現在50歳になる著者である息子に語った戦争体験記を読むと、広島の原爆で伯父伯母や従妹たちを亡くしているが、そういうこともあったからだろうか、戦争についてどちらかというと語ることもなく亡くなってしまった父は、一体何を考えてあの時代を生きていたのだろうかと今更ながらに思う。
それにしても、本書の著者のように、どうにかしてそのオーラル・ヒストリーを父から聞いておけばよかった―――となんとなく悔いが残る。
（15年6月発行）