死の棘 島尾敏夫 新潮社
予定調和のない小説といえば例えば太宰の「人間失格」や「斜陽」のようなものをはじめいくつか思い当たるが、その幾つかは読んでいて救いがない！小説なのに妙に魅力的で手放せなくなってしまうのはなぜなのだろうか。
小説の世界は概して起承転結なり、予定調和なりの「終わり」という仕切りがあるものだが、実人生は終わりがないことはだれでもが経験している。白雪姫の物語にしても白雪姫と王子様が結婚するところで終わるが、結婚した後、白雪姫とあの意地悪な魔法使いの義母とは嫁、姑として泥沼の戦いを続けたかもしれないし、あの白馬の王子にしてもその内、浮気をはじめたかもしれない―――というのに。そういう意味では、この小説があまりにも実人生をそれに近い形で再現しているために我々が感じる違和感が強いことが、この小説を「名作」と言わせている一つの仕掛けなのかもしれない。
そう、島尾敏夫の実体験、実生活に基づくこの小説の「救いようのないドロドロ劇」は、これでもかこれでもかというほどの救いようのなさが際限なく、しかも執拗なほどに細かく描かれていて、途中で何度か投げ出したくなるほどではあるが、それでも手放せずに最後まで読んでしまうし、読了した後の不完全燃焼度がまたMAXのまま残る―――というのに、それでもやっぱり「これは名作だ！」と思えるのだから実に不思議な小説だ。
小説を発表しながらそれだけでは生活がなりたたないので夜間高校講師もして糊口をつなぐ主人公である夫トシオは、十年程前に南の島で知り合い妻となった篤実な妻に隠れて他の女との愛人関係を続けていたが、このことがミホの知るところとなり、トシオに十年以上も身も心も捧げてきただけにその裏切りが許せずミホは発狂してしまった。
トシオにとっても自らの裏切りによってミホをこのような状況にいたらしめた自分の責任を感じ、日々昼夜を問わず続く発狂した妻の詰問と責めくに耐えるしかない。
しかも、二人の間には6歳の息子と3歳の幼い娘がおり、父と母との昼夜にわたる諍いは、彼等の健気さによって更に悲劇的なものとして描かれる。（父と母の修羅場を 「カテイノジジョウ」（たしか、この頃トニー・谷が流行らせたギャグだったように思うが---）でといっておびえながら見守る二人がなんとも健気で哀れだ）
自分が妻から去れば、妻は物理的にも精神的にも生きてはいけないことを知っているトシオは、どんな責め苦にも耐える覚悟をしてはいるものの、徐々に自分も狂気の淵へと追い込まれるし、また自分が狂気を装うことで一時的にとはいえミホが正気に戻ることがあることを体感してからは、自分でも詐病なのか本当に自分も発狂しつつあるのかさえ分からなくなっていくトシオの精神状態の描写もなんとも救いようがない迫力がある―――。
敢えてこの小説の美しさを指摘するならば、お互いが傷つけあうドロドロの日々を送るなかで泥田からハスの花が咲くように、二人の間に純粋な愛ともいえるものの芽生えが見えてくるところだろうか―――。
この小説の時代背景は戦後10数年が経ったころのことのようで、時代背景的にはやはり「人間失格」と似通ったところがあるようにも思う。
浮気、不倫といったことが、今やそれほど不道徳ともいわれなくなりつつあり、もしそういった伴侶の不貞があればお互いが発狂することもなくさっさと別れる---といったことが簡単になりつつあるようにも思える現代では、この小説のドロドロさはあまり理解できないかもしれない。
自分達の世代がこの小説の雰囲気を辛うじて理解できる最後の世代なのかもしれないなぁ〜とも思う。
（81年1月発行）