高熱隧道 吉村昭 新潮社
この「読書日記」にも吉村昭の作品は10数冊登場しているが、彼の出世作が「戦艦武蔵」であったようにこの人が一貫して書き続けたのが徹底した資料の読み込みにもとづく実録歴史文学とか記録文学と言われるもので事実の裏付けがしっかりされているという強い背骨があるからこそ、そこに登場する人物たちの一人一人の心理描写にまで迫真の真実味が感じられて、読者はこれが吉村による一つの文学作品である、ということをふっと忘れてしまいそうになる。
数多くの作品を読んできたが駄作というべきものがなく、どれもが大迫力をもって迫ってきて甲乙つけがたいが、中でも「破獄」「羆嵐」は息もつかせず読ませるし、彼のいずれの作品もがもつ登場人物たちの人間らしさ、人間としての悲しさ、といったものが心に染みる。
そんな中でも、随分昔に書かれたこの「高熱隧道」を、今まで読んでいなかったのはなぜなのかと、この作品が吉村の作品中でもトップクラスのリアルさと、人間描写の真実味がある作品であるだけにちょっと不思議だった。
昭和11年8月着工した黒部第三発電所は、日本最大の秘境といわれた黒部川の渓谷沿いに隧道を掘り抜き戦時下の電力需要を賄おうとする国家の命運のかかった水力発電所を作る工事であった。
しかし、掘り進むにつれて岩盤から噴き出す熱水の温度はどんどん上昇し、遂には165度という猛烈な熱水が湧きだすに至ってこの熱水によって直接犠牲となるもの、あるいはダイナマイトが発火してしまう爆破事故や、時速1000キロという猛烈なスピードで宿舎などごとに数キロ先まで吹き飛ばしてしまう「泡雪崩」（ホウ）などによって昭和15年11月に完成するまでに実に300名を上回る犠牲者を出した。
あまりの事故の頻発と犠牲者の多さに工事中止を勧告する富山警察などの動きと、それでも国策の名の下にあくまでも完遂させようとする国家と軍部は、天皇から遺族への御下賜金を配り、「陛下からも御下賜があるような工事を中止させるわけにはいかない」といった無言の圧力をかけた――といった事実や、通常の5倍もの日当が支払われることから命がけでも現場へ向かう貧しい人夫達、そして人夫たちに犠牲がでるのには目をつぶってでも任せられた工事を全うしようととりつかれたように現場を指揮する技師や監督たち―――といった重層な人間ドラマが大迫力で迫ってくる。
吉村自身、06年の癌の病床において長女に「死ぬよ」と言ってから自ら点滴とカテーテルを抜いたという彼の作品にもありそうな、壮絶ともいえる死に方をしており、もう新作がでることもないのだが―――まだ読んでいない作品も多いはずで、是非読んでみたいと思う。
（75年7月発行）