逝きし日の面影　　　　渡辺京二　　　　　　平凡社　

歴史評論の難しさは、評者の価値観の錨が奈辺に打たれているか次第によって、結論が全く異なったものになるのは当然であり、どれが「正しい歴史評論」などと言えるものがないとはいえるのだが―――。

戦国史あるいは江戸近世史を語るにせよ一時期流行った戦後左翼によるそれはすべての出来事を民衆の抑圧に対する抵抗の歴史であるとしてしまいがちだが、著者による「日本近世の起源」などではそれとは正反対に、むしろ人間の明るく本能的な部分が解放されていた時代として描かれることが多く、同じ時代を描いていながら前者とは正反対の史観となっている。

明治維新によって江戸幕藩体制とその制度が全面的に否定されてからは長く江戸時代は否定的に描かれてきたが、江戸時代の雰囲気を残した明治10年頃の日本の田舎を旅したイザベラ・バードや、他の外国人になどの旅行記を読むと、むしろ江戸時代の人々の生活は、貧しいながらも実におおらかであったように描かれており、はたしてその時代がどのような時代であったのかを、白黒つけて判断することは難しい―――というのが本音のところだ。

その意味では、著者の数多くの歴史著作は、いままで否定的というかネガティブに評されることの多かった日本史について、肯定的に見ることが多く目から鱗のようなところがあり、否定的な評論よりもよほど読後感はよい。

日本の歴史評論としては、長く大勢を占めていた左翼歴史観と違っているので、本当かなぁ〜と思わないではないが、どの著作も、著者の実に丁寧な（ある意味しつこいぐらいの）資料の読み込みが詳しく又深いこともあって、その著作内容に対する信用度を上げているように思えるのだ。

本作もイザベラ・バードの著作同様、日本近世の庶民の暮らしぶり、あるいは道徳観などから書き起こしてあり、あまり評論をせず淡々と古い日本の庶民文化や道徳観を述べているところに誠実さを感じるし、わずか150年程まえの明治維新という大変革期まえの、「古き良き時代」の日本が、現代にはない、実にホッとする幼いながら美しさをたたえた社会であったように思えてくる。

（05年9月発行）