墨東奇譚　　　　　　永井荷風　　　　　　新潮文庫　　

永井荷風の代表作ともいわれるこの小説を何十年振りかに読み返してみたが、この小説の醸し出す荷風の生きた時代の私娼窟・玉の井の雰囲気と情緒、そこに生きる女の哀れさ、健気さ、そして回りからは偏屈と言われながらも、自由人として生きた老人荷風の人柄が実に見事に描かれていて、やはり「文豪」と呼ぶに相応しい人物の代表作ならではと感心した。

ひょんなことから下町の玉ノ井を通りかかった老作家大江は、急に大粒の雨が降り出し傘を広げると、浴衣姿の女が傘に入ってきた。

その女お雪に誘われるままに、お雪のいる私娼窟の部屋に上がるが、そんな切掛けから大江の玉の井通いがはじまる。

玉の井の四季の移り変わりや、その情緒が詩編でもみるように描かれ、大江が構想している小説の着想が同時並行的に描かれるというこの作品の構成も見事だ。

ある時、なじみとなったお雪から、借金がなくなったら「おかみさん」にしてほしい、と言われる大江だったが、自分は、お雪を幸福な家庭の人にできるような男ではないと考え、玉の井に通うのを止めてしまうのだが―――それからしばらくして、お雪が入院したことを聞く―――その後のお雪の消息はぷっつりと消え、この小説は終わるのだが―――。

時代背景と言い、市井の名もなき人々の生きざまと言い、なんとも情緒あふれる一編だ。

（51年2月発行）