エロス　　　　　　　　広瀬正　　　　　　　　集英社　　　　　　　

「マイナス・ゼロ」「ツィス」と没後、38年にもなる広瀬正のSF改訂新版を読んできたがこれがその三冊目だ。

「マイナス・ゼロ」と同じく彼がもっとも好んだパラレルワールド物であるが、「あの時、もし、こうだったとしたら」という歴史では禁句ともいわれる「ホワット・イフ」の物語が、SFという小説にとってはこれほど面白い素材になるということをこの作品は示してくれる。

歌手として大成功をおさめている大物歌手橘百合子が歌手になるきっかけをつかんだのは昭和9年9月20日のことであった。

彼女は岩手から東京の市電運転手を勤める叔父夫婦を頼って上京してきたが、折からの市電合理化の嵐の中で生活に困るようになりつつあった叔父夫婦に負担をかけまいと、美術用のヌードモデルになることを決意する。

その申し込みに行く当日、斡旋所に行くかどうかを迷った彼女は、ある賭けをして今日斡旋所に行くか、明日にするかを占ってみる。

彼女にはひそかに思いを寄せている憧れの帝大の学生がいてその二人の交際はまだ極めて初期の段階だったのだ。

この基点から物語は、過去と現在、もう一つの過去と現在といった形で進行して行く。

彼女の憧れであった帝大生、片桐慎一をはじめあらゆる人々が二つのパラレルワールドでどのようになっていくか。昭和9年からこの作品が書かれた昭和40年代までの日本の政治社会史の細かな描写に加えて、風俗史のディテールが巧みに描かれている。

SF的な大きなトリックといったものがある訳ではなく（最後にちょっと驚きのどんでん返しはあるが）、ある種、古き良き時代のSFといった雰囲気もするが、それが却って、SFの古典を読むような面白さにつながっていると思う。

考えてみれば、父と母が出会わなければ自分は生まれていないし、そうであれば自分の子供や孫もいない訳だから、この「ホワット・イフ」というテーマは無限の面白さを持っているといえるかも。