大腸菌　　　　　　カール・ジンマー　　　　　　NHK出版　　

本書を手にとった理由は、訳者が矢野真千子だったからだ。

映画で字幕が「戸田奈津子」だと知れば安心して楽しめるように、矢野真千子がみずから選び訳した本にははずれがまったくない。（「解剖医ジョン ハンターの数奇な生涯]、｢サイのクララの大旅行｣、「感染地図」、「迷惑な進化」等々)

「細菌が世界を支配する」にも詳しく述べられていたが、大腸菌は、遺伝子研究にとってはなくてはならない菌である。

大腸菌は核を持たない原核生物だが、あらゆる生物のもつ生命機能の基本を全てもっている。すなわち「生物の基本」としての大腸菌を研究することが、「生命とはなにか」「遺伝子と生命体との関係はどうなっているのか」を知る手がかりとなるという訳で世界中の研究所で研究され続けている実に身近な存在なのだ。

大腸菌研究の歴史はすなわち生命科学研究の歴史であり、その成果は我々自身の体、そして精神のメカニズムの謎をとく鍵なのだ。

本書の著者、ジンマーはキリスト教右派の唱える反進化論、神による天地創造説の、巧妙な焼直しであるインテリジェント・デザイン説に対する進化論側からの有力な論客として有名だ。本書でも、インテリジェント・デザイン派が教科書裁判でつかった「大腸菌のように微細な生命が持つ鞭毛の機能は神以外には作れない」という説を、進化論の立場から見事に論証した過程を詳しく説明している。

ドーキンスのような過激な口調ではなく、むしろインテリジェント・デザイン派の愚かさを優しくたしなめるような見事な論法は矢野真千子の訳という所為も加わって胸がすくように明快だ。

大腸菌の特徴からはじまり、その生殖のメカニズム、進化、エネルギー獲得のシステム、性や遺伝といった仕組みに関する本書の詳細な記述を読んでいくと、分子生物学者ジャック・モノーのいう「大腸菌にあてはまることは、ゾウにもあてはまる」という言葉の意味が実感できるようになる。